5/11 はんつ遠藤氏と廻る県内美味しい麺屋さん その2神谷やきそばと大学アバート時代
Categoryはんつ遠藤氏
さて、前回は史上最大規模の脱線をしてしまい失礼致しました (笑)
まだまだ脱線の要素を残しつつ、取材同行ツアーの一軒目「神谷焼きそば」さんに話を戻したいと思います。

現着は午前10時。営業時間にかぶらないように早めの到着です。
はんつ氏がお店のご夫婦に段取りを説明し、いざ取材開始であります。

といっても私はとにかく邪魔にならないようにその辺をウロウロするだけで、特段何もすることがありません(笑)

実質このお店を切り盛りしているという奥様。
焼きそばを焼いている間もなんともにこやかな表情で、お人柄をしのばせます。
ここ神谷さんは、今や全国的に有名になった「横手やきそば」の元祖と呼べるお店です。お店の名にもしっかり元祖・と入っています。
京都の八ツ橋にようあるような「元祖」「本家」「家元」などと言った類とは違います(笑)
正真正銘、こちらのお店が発祥なのであります。
昭和30年頃、現在のおかみさんのお祖父さんにあたる方(萩原氏)が屋台で焼きそばを提供したのが始まりとか。
お聞きしたところ、紅生姜の代わりに福神漬けを乗せるのは、噂通り子供に配慮しての理由でした。
ちなみに私も紅生姜を食べられるようになったのは大人になってからです(苦笑)

この日撮影用にお願いしたのは「肉玉子野菜」の並。
はんつ氏はすぐさま撮影に取り掛かります。
かつて琴平館内で良く見た光景が今まさに目の前で再び繰り広げられております!

やはりここでも私は何も手伝うことなく、ただ背後から見守るだけという体たらく (爆)
ならばせめて食べてお手伝いと思いましたが、私が糖質セイゲニストだという事をしっかりと事前に予習して知っているはんつ氏は、私を気遣ってくれて全部自分一人で頑張って食べようとされます。
この後三軒回るというのに!
フード評論家ではなく、フードファイターなのでは!?と思える食べっぷり(笑)で、この先の氏の胃袋がいささか心配になりますが、それは後に杞憂に終わることになります(爆)

それにしても取材を見ていて思ったのですが、はんつ氏の聞き取りテクニックには随所に「うまいなぁ」と思わせる点が多く、お店の方の心を開かせるに十分な技量のは持ち主とお見受けしました。
なるほど、この人の前なら何でも喋ってしまおうと思わせる人柄とテクニックがあるのです。
やはり大隈重信校のエデュケーション学科卒業であります。
私のように、元法律学校で授業内容もよく分からず、なびく白雲を見続けていたら卒業も忘れてしまったようなボンクラとは訳が違います(核爆)
在学当時、私がバイト代をはたいて六本木のタマツバキなんていうディスコで、親友と朝まで踊ってる間に、氏は猛勉強して将来に備えていたものと思われます (爆)
いや、私も少しは真面目に勉強したこともあります。
ありますが、高校時代の反動と、東京という解放された土地のせいで勉強よりも大事なことが多々見つかってしまった感があります (笑)
ですから、試験の前はなかなか大変で、様々な方法でそれを乗り切ったのですが、残念ながらここをお読みの良い子のみんなに悪い影響を与えるような内容ばかりなのでここでは書けません (核爆)
18歳で半ば不動産屋に騙されて入居した杉並のアパートは、そりゃあもう大変でした。
大屋政子のおばあさんはなんとクリスチャンで、清廉潔白の方でした。
私はそのおばあさんの持ち家の一室を間借りするという形で入ったのです。家賃は当時出始めの「諭吉」3枚くらいだったと思います。まだ「太子」も出回っていた頃です。
荻窪駅から歩いて10分ほどの天沼商店街を少し抜けた先にその家はありました。
もちろん風呂なしトイレ共同、電話は受けるのが専門で、しかも大家の電話ですから、実家からかかってきたときなど、それはそれは恐縮して出たものです。
今の子たちにはわかんないだろうなぁ。あの背中も曲がる恐縮感。
その大家の間借りの部屋は、和室の四畳半くらいだったでしょうか。初めからそのバァさんのダンスなどが置いてあり、それはそれは邪魔なシロモノでした (爆)
洗濯機は窓を開けるとすぐ目の前にありましたが、使い方がわからず一度も使ったことがありませんでした(爆)
ここまで書いてきてやっと脱線してきたことにオカモトのウスウスのように0.02ミリほど気付き始めましたが、あえてこのまま進みます(爆)
はんつさん、ごめんなさい (爆)
そういえば当時、夜になると必ず何処からかやってくるニャンコがおりました。

家捜しして写真を見つけました!(笑)
実家にも体重20キロもあろうかという老猫「三四郎」…

がおりまして、そいつと離れ離れになった寂しさから、ついこのニャンコを部屋に上げてしまったのです。
自分のご飯を買うお金もろくになかった時に、ミルクを買ったり、100円バーガーを買って分け合って食べたりしたものです。

思えば当時はキャットフード的なものは見かけませんでしたなぁ。あったとしても高くて買えなかったかのいずれかです。
とにかく、こうして情をかけてしまったので、ついには部屋に居ついてしまったのです。
初めのうちはどうにか大屋政子の目を掻い潜って飼っておりましたが、ある日学校から帰るとそいつの姿が忽然と消えていたのであります (泣)
そして大屋政子が怖い顔で部屋に入ってきて「佐藤さん、ペットは禁止と言ったでしょう」と言われたことで、私の留守中にあったであろう事の顛末を瞬時に理解できたのであります。
そのニャンコは私の身体中に蚤の刺し跡をたくさん残して消えていったのであります (笑泣)
悔しかったので、常日頃邪魔だと思ってたバァさんのタンスの扉をドライバーでバラし、その板を戸棚代わりにして使ってやりました (核悪爆)
それも一週間くらいでバレ (爆)、しこたま怒られました(当然爆)
そして夏も近くなったある日の早朝、隣からバァさんとその友達らしき人との会話が漏れ聞こえてきました。
大家「ほんとにねぇ、困ったものよ。うちの佐藤さん!」
友達「なになに、どうしたってのよぉ?」
大家「この間なんて野良猫を部屋に入れちゃっててねぇ!床中蚤だらけなのよ!!」
友達「まぁ、なんて間借人かしら!」
大家「おまけに私のタンスを壊して、勝手に棚にしちゃってさあ!」
友達「あら、ひどい!早く追い出しなさいよ!」
大家「そうするわ」
友達「そうしなさいったら、そうしなさい」
大家「そうしましょうったら、そうしましょう」
みたいな会話だったと思います(核爆)
身の危険をモロに感じた私は、段ボールに身の回りのものを詰め込んで、いつ追い出されてもいいように準備を始めました(爆)
そうやって荷物をまとめておいたら夏休みに入ったので、一旦秋田へ逃げ帰ったのであります。
そして再びバイクで杉並の部屋へ戻ってみると、なんと部屋から私の物が出されていたのです!
これはもはや大家による宣戦布告!(爆)
一日も早く出て行けコールを無言で受けたのであります。
事が切迫していると判断した私は、ディスコにも朝まで付き合ってくれる高校時代からの親友Mる君にお願いして、何とか一時しのぎ的に同居を懇願、そしてなんと国家公務員の彼の寮へと潜入に成功するのです (爆)
その際、おそらく部屋にあったであろう数々の思い出の品を、荻窪に置き残してきたものと推測されます。
未だに小学校の卒業アルバムや、命よりも大事だと思っていたA.猪木大先生のサインが見つかっていないのです。
きっとあのババァが勝手に捨てやがったものと思われます(核爆)
という感じで、「おばあさん」→「バァさん」→「ババァ」と言い方が変遷していることで、私の感情の変遷もご理解頂けたら幸いです。
ちなみにこういうのを「逆恨み」といいます(超核爆)
しかし、そんな簡単なことに気づくのに20年もかかりました(核爆)
んあ?
おおっーーと!!
やっぱり確信的に脱線したか!!
この後も私の逃亡日記(何から逃げているんだ!?)はまだまだ続きますが、神谷焼きそば店の次は羽後町の老舗そば屋さんに行かなくてはいけないのでした!!(爆)
もはや、なんの記事だったか忘れつつあります(核爆)
さっ!はんつさん、先を急ぎましょう!(超核爆)
まだまだ脱線の要素を残しつつ、取材同行ツアーの一軒目「神谷焼きそば」さんに話を戻したいと思います。

現着は午前10時。営業時間にかぶらないように早めの到着です。
はんつ氏がお店のご夫婦に段取りを説明し、いざ取材開始であります。

といっても私はとにかく邪魔にならないようにその辺をウロウロするだけで、特段何もすることがありません(笑)

実質このお店を切り盛りしているという奥様。
焼きそばを焼いている間もなんともにこやかな表情で、お人柄をしのばせます。
ここ神谷さんは、今や全国的に有名になった「横手やきそば」の元祖と呼べるお店です。お店の名にもしっかり元祖・と入っています。
京都の八ツ橋にようあるような「元祖」「本家」「家元」などと言った類とは違います(笑)
正真正銘、こちらのお店が発祥なのであります。
昭和30年頃、現在のおかみさんのお祖父さんにあたる方(萩原氏)が屋台で焼きそばを提供したのが始まりとか。
お聞きしたところ、紅生姜の代わりに福神漬けを乗せるのは、噂通り子供に配慮しての理由でした。
ちなみに私も紅生姜を食べられるようになったのは大人になってからです(苦笑)

この日撮影用にお願いしたのは「肉玉子野菜」の並。
はんつ氏はすぐさま撮影に取り掛かります。
かつて琴平館内で良く見た光景が今まさに目の前で再び繰り広げられております!

やはりここでも私は何も手伝うことなく、ただ背後から見守るだけという体たらく (爆)
ならばせめて食べてお手伝いと思いましたが、私が糖質セイゲニストだという事をしっかりと事前に予習して知っているはんつ氏は、私を気遣ってくれて全部自分一人で頑張って食べようとされます。
この後三軒回るというのに!
フード評論家ではなく、フードファイターなのでは!?と思える食べっぷり(笑)で、この先の氏の胃袋がいささか心配になりますが、それは後に杞憂に終わることになります(爆)

それにしても取材を見ていて思ったのですが、はんつ氏の聞き取りテクニックには随所に「うまいなぁ」と思わせる点が多く、お店の方の心を開かせるに十分な技量のは持ち主とお見受けしました。
なるほど、この人の前なら何でも喋ってしまおうと思わせる人柄とテクニックがあるのです。
やはり大隈重信校のエデュケーション学科卒業であります。
私のように、元法律学校で授業内容もよく分からず、なびく白雲を見続けていたら卒業も忘れてしまったようなボンクラとは訳が違います(核爆)
在学当時、私がバイト代をはたいて六本木のタマツバキなんていうディスコで、親友と朝まで踊ってる間に、氏は猛勉強して将来に備えていたものと思われます (爆)
いや、私も少しは真面目に勉強したこともあります。
ありますが、高校時代の反動と、東京という解放された土地のせいで勉強よりも大事なことが多々見つかってしまった感があります (笑)
ですから、試験の前はなかなか大変で、様々な方法でそれを乗り切ったのですが、残念ながらここをお読みの良い子のみんなに悪い影響を与えるような内容ばかりなのでここでは書けません (核爆)
18歳で半ば不動産屋に騙されて入居した杉並のアパートは、そりゃあもう大変でした。
大屋政子のおばあさんはなんとクリスチャンで、清廉潔白の方でした。
私はそのおばあさんの持ち家の一室を間借りするという形で入ったのです。家賃は当時出始めの「諭吉」3枚くらいだったと思います。まだ「太子」も出回っていた頃です。
荻窪駅から歩いて10分ほどの天沼商店街を少し抜けた先にその家はありました。
もちろん風呂なしトイレ共同、電話は受けるのが専門で、しかも大家の電話ですから、実家からかかってきたときなど、それはそれは恐縮して出たものです。
今の子たちにはわかんないだろうなぁ。あの背中も曲がる恐縮感。
その大家の間借りの部屋は、和室の四畳半くらいだったでしょうか。初めからそのバァさんのダンスなどが置いてあり、それはそれは邪魔なシロモノでした (爆)
洗濯機は窓を開けるとすぐ目の前にありましたが、使い方がわからず一度も使ったことがありませんでした(爆)
ここまで書いてきてやっと脱線してきたことにオカモトのウスウスのように0.02ミリほど気付き始めましたが、あえてこのまま進みます(爆)
はんつさん、ごめんなさい (爆)
そういえば当時、夜になると必ず何処からかやってくるニャンコがおりました。

家捜しして写真を見つけました!(笑)
実家にも体重20キロもあろうかという老猫「三四郎」…

がおりまして、そいつと離れ離れになった寂しさから、ついこのニャンコを部屋に上げてしまったのです。
自分のご飯を買うお金もろくになかった時に、ミルクを買ったり、100円バーガーを買って分け合って食べたりしたものです。

思えば当時はキャットフード的なものは見かけませんでしたなぁ。あったとしても高くて買えなかったかのいずれかです。
とにかく、こうして情をかけてしまったので、ついには部屋に居ついてしまったのです。
初めのうちはどうにか大屋政子の目を掻い潜って飼っておりましたが、ある日学校から帰るとそいつの姿が忽然と消えていたのであります (泣)
そして大屋政子が怖い顔で部屋に入ってきて「佐藤さん、ペットは禁止と言ったでしょう」と言われたことで、私の留守中にあったであろう事の顛末を瞬時に理解できたのであります。
そのニャンコは私の身体中に蚤の刺し跡をたくさん残して消えていったのであります (笑泣)
悔しかったので、常日頃邪魔だと思ってたバァさんのタンスの扉をドライバーでバラし、その板を戸棚代わりにして使ってやりました (核悪爆)
それも一週間くらいでバレ (爆)、しこたま怒られました(当然爆)
そして夏も近くなったある日の早朝、隣からバァさんとその友達らしき人との会話が漏れ聞こえてきました。
大家「ほんとにねぇ、困ったものよ。うちの佐藤さん!」
友達「なになに、どうしたってのよぉ?」
大家「この間なんて野良猫を部屋に入れちゃっててねぇ!床中蚤だらけなのよ!!」
友達「まぁ、なんて間借人かしら!」
大家「おまけに私のタンスを壊して、勝手に棚にしちゃってさあ!」
友達「あら、ひどい!早く追い出しなさいよ!」
大家「そうするわ」
友達「そうしなさいったら、そうしなさい」
大家「そうしましょうったら、そうしましょう」
みたいな会話だったと思います(核爆)
身の危険をモロに感じた私は、段ボールに身の回りのものを詰め込んで、いつ追い出されてもいいように準備を始めました(爆)
そうやって荷物をまとめておいたら夏休みに入ったので、一旦秋田へ逃げ帰ったのであります。
そして再びバイクで杉並の部屋へ戻ってみると、なんと部屋から私の物が出されていたのです!
これはもはや大家による宣戦布告!(爆)
一日も早く出て行けコールを無言で受けたのであります。
事が切迫していると判断した私は、ディスコにも朝まで付き合ってくれる高校時代からの親友Mる君にお願いして、何とか一時しのぎ的に同居を懇願、そしてなんと国家公務員の彼の寮へと潜入に成功するのです (爆)
その際、おそらく部屋にあったであろう数々の思い出の品を、荻窪に置き残してきたものと推測されます。
未だに小学校の卒業アルバムや、命よりも大事だと思っていたA.猪木大先生のサインが見つかっていないのです。
きっとあのババァが勝手に捨てやがったものと思われます(核爆)
という感じで、「おばあさん」→「バァさん」→「ババァ」と言い方が変遷していることで、私の感情の変遷もご理解頂けたら幸いです。
ちなみにこういうのを「逆恨み」といいます(超核爆)
しかし、そんな簡単なことに気づくのに20年もかかりました(核爆)
んあ?
おおっーーと!!
やっぱり確信的に脱線したか!!
この後も私の逃亡日記(何から逃げているんだ!?)はまだまだ続きますが、神谷焼きそば店の次は羽後町の老舗そば屋さんに行かなくてはいけないのでした!!(爆)
もはや、なんの記事だったか忘れつつあります(核爆)
さっ!はんつさん、先を急ぎましょう!(超核爆)
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