YAMAHA FZ250 Phazer素人レストア記 4
CategoryFZ250 Phazer
すんません。もう少しだけ80年代のお話を…。
先述の居候先、花形君とのアパート住まいは一ヶ月~二ヶ月ほどだったでしょうか…
そしてある日のこと、突然花形君から耳を疑う一言が…
「秋田から〇〇子が来て一緒に住むことになったから、マナブ、悪いけれどどこかアパート見つけてくれ…」と。
そう。花形君が当時遠距離恋愛していた同い年の彼女が上京してくることになったのです。
もちろん私は立ち退かねばなりませんわな?
さすがにそこまで図々しくもないので(笑)
しかしながら寝耳に水の事態になかなか良いところが見つからず途方に暮れていたところ、またまた救いの神が現れてくれたのでした。
大学の同級生のマサトシさんという、年齢は自分らより4つほど上の岐阜出身の方でした。
「佐藤くん、行くところないならうちに来なよ」と神対応をしてくれたのでありました。
話はとんとん拍子に進み、彼の住む埼玉県和光市に「イジュー!!」ケティ(笑)
それまで一度も訪れたことのない地に行くのはいささか抵抗もありましたが、ここは彼の人柄と好意にすがることにしました。
ただ、最寄駅から徒歩30分近くかかるとんでもない田舎でしたけれど(苦笑)

確か赤塚駅から下車、高島平団地などを通りながらひたすら歩く。
現在ならおそらく新駅も出来て便利になったことでしょうね。
とにかく当時は不便で大変な場所だったと言う記憶しかありません。
ここに春近くまで居候させて頂いたと思います。
正月は一旦実家に帰省し、年が明け自分の19歳の誕生日の翌日、和光の部屋で一人テレビを見ていたら、またもや空の大惨事を目の当たりすることになります。

今なお記憶に鮮明に残るスペースシャトル「チャレンジャー号」の空中爆発事故です。
一瞬何が起こったのかわからないほど、その光景は一瞬であり、悲惨でありました。
ここをお読みの方でもあの光景は忘れられないと言う方は多いことでしょう。
瞬時にして高まる期待が奈落の底へ叩き落とされた映像でした。
またもや暗い年になるのかと思った1986年春、マサトシさんのところへの居候にもそろそろ見切りをつけなくてはいけなくなった頃、アパート探しの"本" (奥さん!本ですよ、本!)で、遠く神奈川県相模原市の方になかなか良い物件を見つけます。
新築で1Kユニットバス付き。家賃は当時聖徳太子から切り替わったばかりの「福沢諭吉」が3枚ほど。
もちろん実家からの仕送りでなんとか生活しておりましたが、単発のバイトや中期のバイトを繰り返し、どうにか引っ越しできるファイナンシャル・シチュエーションになってきました。
そんな時はやはり花形君頼りです。
今度はコラムシートのトラックを手配して来てくれました(大感謝)

(イメージ)
まぁ私を個人的な事情で追い出したという負い目も感じていたものか?(爆)
和光市から相模原までの移動開始です。
その時、自分はフェーザーに乗って行ったのか、それともトラックに積んで3人で向かったのか全く覚えていません。
そしてやっと皆さんの協力のもと、これからは安定の住居生活へと突入していくのであります。

↑右手にタバコ、そしてスヌーピーのエプロン(なして?爆)
相模原市南台、向かいには三菱キャタピラーの社宅(団地)がそびえる住宅街でありました。
最寄駅は小田急線相模大野、もしくは小田急相模原(現在はオダサガと略すらしいですが)の中間点で、それぞれ歩いて15分、10分という距離でありましたなぁ。
そこからです。
いよいよフェーザーが我が足となり、相棒となり、本当の意味での愛車となっていくのは。


(相模湖辺りにて。)
86年4月、小田急沿いに居を構えたのは、花形君と同じく、郷里から当時付き合っていた彼女が進学のため神奈川にやってくるからなのでありました(苦笑)
岡田有希子が飛び降り自殺したニュースも忘れられませんね…
その後、後追い自殺みたいなのが続きに続いた…
自分、メイジキメラ大学2年!元カノ・トーカイテイオー大学1年!(爆)
もちろん住まいは別々の生活でしたが、週末はフェーザーで遠出する生活が長く続きました。。
後に彼女は寮から出て、町田のマンションに引っ越し、その後も半同棲のようにしばらく付き合っておりましたが、私の就職失敗に伴う実家への帰還でもって、長すぎた春はジ・遠藤となったのでありました(爆)
↑で話は数年飛びますが、この場でその詳細を書いたところで既に互いに家庭のある身。悪影響を及ぼす可能性もあるのでやめときます。
楽しい都会生活も5年ほどで見切りをつけ、私は郷里で生きることを決意します。
それは就職に失敗したのが一番の理由というのは実は表向きで、春は山菜採り、夏は釣り、秋はキノコ採り、これが都会では叶わなかった事が最たる理由なのです(笑)
キノコ採りがしたくてたまらんあまり、丹沢の山へフェーザーで行ったこともあるくらいです。
もちろん初めて入る山では一本も採れませんでしたけどね(苦笑)
山から出てバイクまで戻ってきたらパンクしてて、走行不能という憂き目にあったこともあります。
その時は通りがかった大型トラックの気の良いあんちゃんが応急処置でエアを入れてくれて、麓のガソスタまでギリ辿り着き、そこでタイヤを修理してもらい、無事相模原へ帰宅(超安堵)
とにかくフェーザーというバイクはクセが強すぎました。
何より困ったのはエンジンの中村始動です(爆)
普段はセルを回して一発でかかるのですが、その後が大変。
寒い時なんてフツーに"ストン"とエンストします。
その後がもうかからない、かからない。
チョークを引っ張ってもダメ。
アクセルを開けてもダメ。
セルを回しすぎて次第にバッテリーも弱くなってくるので、そうなればもう押しがけしかありません。
これまでのフェーザー人生で何百回押しがけスタートしたかわかりませんよ(苦笑)
今なお最悪なのは、信号待ちでエンストした時です(つい先日もありました)
ある程度エンジンがあったまっているとすぐにかかってくれますが、冷めている時なんてもう最悪。
セル回してもかからないので、後続車のために道路の脇に寄せなければいけないのです。
そんな苦労がこれまで何度あったことか…
それでも毎年の夏休みはフェーザーで秋田まで帰るのですが、大学4年の頃になると、帰京は近鉄トラックでフェーザーを荷物として送るという、バイク乗りとしてはサイテーなことを繰り返します(自爆)
そんな手の掛かるバイクでしたが、それだけに愛着心は人一倍湧くわけで、その後36年、何度も住まいは変わりましたが今もこうして手元にあるわけです。
さて、ここまでかいつまんで自分の80年代を語ってきました。
とりあえず1989年までは相模原暮らしを続けますが、その後はアパートを引き払い、秋田へと戻ることになります。
ちなみに普通免許は20歳の時に地元で取得。
家にあったジェミニディーゼルで、免許取った次の日には岩手へ数百キロ走るという行動力を発揮するのでありました(笑)
ですがそうやって四輪の快適さと、冬季間全くバイクに乗れない土地柄の影響で、次第に骨抜きにされていった私のフェーザー魂と本体は、共にホコリをかぶっていくのでありました。
そしてついにはフェーザーくんは自宅の車庫にカバーをかけて置かれっぱなしになり、さらに物置へとその居を移され、静態保存されるようになりました…SLか!(爆)
幸い屋内保存だったことと、夏には何度か引っ張り出し、エンジンに火を入れていたため、しばらくの間は動いていたのですが、今のカミさんとなる人と付き合うようになってからは、もうほとんどフェーザーにまたがることはなくなりました…
およそ、1995年~2005年の10年ほどは完全なる冬眠状態が続きました…
その間、キャブからガソリンを抜くこともなく放置新聞したため、その後の惨状たるやバイクオーナーなら推して知るべし。。。
2005年、次女が産まれた歳、長男が5歳。

この子をバイクというものに乗せてあげるべく、初めてフェーザーをレストアすることになります。
でもでも~ちょっといじってみたら~
キャブとガソリンタンク内はガソリンが腐り果て、とんでもない香り~(鼻曲がり)
おっと、ようやくレストアの記事になりつつありますので、続きは次回ですね(笑)
果たして10年間も寝ていたフェーザーは蘇ったのでありましょうか!?
先述の居候先、花形君とのアパート住まいは一ヶ月~二ヶ月ほどだったでしょうか…
そしてある日のこと、突然花形君から耳を疑う一言が…
「秋田から〇〇子が来て一緒に住むことになったから、マナブ、悪いけれどどこかアパート見つけてくれ…」と。
そう。花形君が当時遠距離恋愛していた同い年の彼女が上京してくることになったのです。
もちろん私は立ち退かねばなりませんわな?
さすがにそこまで図々しくもないので(笑)
しかしながら寝耳に水の事態になかなか良いところが見つからず途方に暮れていたところ、またまた救いの神が現れてくれたのでした。
大学の同級生のマサトシさんという、年齢は自分らより4つほど上の岐阜出身の方でした。
「佐藤くん、行くところないならうちに来なよ」と神対応をしてくれたのでありました。
話はとんとん拍子に進み、彼の住む埼玉県和光市に「イジュー!!」ケティ(笑)
それまで一度も訪れたことのない地に行くのはいささか抵抗もありましたが、ここは彼の人柄と好意にすがることにしました。
ただ、最寄駅から徒歩30分近くかかるとんでもない田舎でしたけれど(苦笑)

確か赤塚駅から下車、高島平団地などを通りながらひたすら歩く。
現在ならおそらく新駅も出来て便利になったことでしょうね。
とにかく当時は不便で大変な場所だったと言う記憶しかありません。
ここに春近くまで居候させて頂いたと思います。
正月は一旦実家に帰省し、年が明け自分の19歳の誕生日の翌日、和光の部屋で一人テレビを見ていたら、またもや空の大惨事を目の当たりすることになります。

今なお記憶に鮮明に残るスペースシャトル「チャレンジャー号」の空中爆発事故です。
一瞬何が起こったのかわからないほど、その光景は一瞬であり、悲惨でありました。
ここをお読みの方でもあの光景は忘れられないと言う方は多いことでしょう。
瞬時にして高まる期待が奈落の底へ叩き落とされた映像でした。
またもや暗い年になるのかと思った1986年春、マサトシさんのところへの居候にもそろそろ見切りをつけなくてはいけなくなった頃、アパート探しの"本" (奥さん!本ですよ、本!)で、遠く神奈川県相模原市の方になかなか良い物件を見つけます。
新築で1Kユニットバス付き。家賃は当時聖徳太子から切り替わったばかりの「福沢諭吉」が3枚ほど。
もちろん実家からの仕送りでなんとか生活しておりましたが、単発のバイトや中期のバイトを繰り返し、どうにか引っ越しできるファイナンシャル・シチュエーションになってきました。
そんな時はやはり花形君頼りです。
今度はコラムシートのトラックを手配して来てくれました(大感謝)

(イメージ)
まぁ私を個人的な事情で追い出したという負い目も感じていたものか?(爆)
和光市から相模原までの移動開始です。
その時、自分はフェーザーに乗って行ったのか、それともトラックに積んで3人で向かったのか全く覚えていません。
そしてやっと皆さんの協力のもと、これからは安定の住居生活へと突入していくのであります。

↑右手にタバコ、そしてスヌーピーのエプロン(なして?爆)
相模原市南台、向かいには三菱キャタピラーの社宅(団地)がそびえる住宅街でありました。
最寄駅は小田急線相模大野、もしくは小田急相模原(現在はオダサガと略すらしいですが)の中間点で、それぞれ歩いて15分、10分という距離でありましたなぁ。
そこからです。
いよいよフェーザーが我が足となり、相棒となり、本当の意味での愛車となっていくのは。


(相模湖辺りにて。)
86年4月、小田急沿いに居を構えたのは、花形君と同じく、郷里から当時付き合っていた彼女が進学のため神奈川にやってくるからなのでありました(苦笑)
岡田有希子が飛び降り自殺したニュースも忘れられませんね…
その後、後追い自殺みたいなのが続きに続いた…
自分、メイジキメラ大学2年!元カノ・トーカイテイオー大学1年!(爆)
もちろん住まいは別々の生活でしたが、週末はフェーザーで遠出する生活が長く続きました。。
後に彼女は寮から出て、町田のマンションに引っ越し、その後も半同棲のようにしばらく付き合っておりましたが、私の就職失敗に伴う実家への帰還でもって、長すぎた春はジ・遠藤となったのでありました(爆)
↑で話は数年飛びますが、この場でその詳細を書いたところで既に互いに家庭のある身。悪影響を及ぼす可能性もあるのでやめときます。
楽しい都会生活も5年ほどで見切りをつけ、私は郷里で生きることを決意します。
それは就職に失敗したのが一番の理由というのは実は表向きで、春は山菜採り、夏は釣り、秋はキノコ採り、これが都会では叶わなかった事が最たる理由なのです(笑)
キノコ採りがしたくてたまらんあまり、丹沢の山へフェーザーで行ったこともあるくらいです。
もちろん初めて入る山では一本も採れませんでしたけどね(苦笑)
山から出てバイクまで戻ってきたらパンクしてて、走行不能という憂き目にあったこともあります。
その時は通りがかった大型トラックの気の良いあんちゃんが応急処置でエアを入れてくれて、麓のガソスタまでギリ辿り着き、そこでタイヤを修理してもらい、無事相模原へ帰宅(超安堵)
とにかくフェーザーというバイクはクセが強すぎました。
何より困ったのはエンジンの中村始動です(爆)
普段はセルを回して一発でかかるのですが、その後が大変。
寒い時なんてフツーに"ストン"とエンストします。
その後がもうかからない、かからない。
チョークを引っ張ってもダメ。
アクセルを開けてもダメ。
セルを回しすぎて次第にバッテリーも弱くなってくるので、そうなればもう押しがけしかありません。
これまでのフェーザー人生で何百回押しがけスタートしたかわかりませんよ(苦笑)
今なお最悪なのは、信号待ちでエンストした時です(つい先日もありました)
ある程度エンジンがあったまっているとすぐにかかってくれますが、冷めている時なんてもう最悪。
セル回してもかからないので、後続車のために道路の脇に寄せなければいけないのです。
そんな苦労がこれまで何度あったことか…
それでも毎年の夏休みはフェーザーで秋田まで帰るのですが、大学4年の頃になると、帰京は近鉄トラックでフェーザーを荷物として送るという、バイク乗りとしてはサイテーなことを繰り返します(自爆)
そんな手の掛かるバイクでしたが、それだけに愛着心は人一倍湧くわけで、その後36年、何度も住まいは変わりましたが今もこうして手元にあるわけです。
さて、ここまでかいつまんで自分の80年代を語ってきました。
とりあえず1989年までは相模原暮らしを続けますが、その後はアパートを引き払い、秋田へと戻ることになります。
ちなみに普通免許は20歳の時に地元で取得。
家にあったジェミニディーゼルで、免許取った次の日には岩手へ数百キロ走るという行動力を発揮するのでありました(笑)
ですがそうやって四輪の快適さと、冬季間全くバイクに乗れない土地柄の影響で、次第に骨抜きにされていった私のフェーザー魂と本体は、共にホコリをかぶっていくのでありました。
そしてついにはフェーザーくんは自宅の車庫にカバーをかけて置かれっぱなしになり、さらに物置へとその居を移され、静態保存されるようになりました…SLか!(爆)
幸い屋内保存だったことと、夏には何度か引っ張り出し、エンジンに火を入れていたため、しばらくの間は動いていたのですが、今のカミさんとなる人と付き合うようになってからは、もうほとんどフェーザーにまたがることはなくなりました…
およそ、1995年~2005年の10年ほどは完全なる冬眠状態が続きました…
その間、キャブからガソリンを抜くこともなく放置新聞したため、その後の惨状たるやバイクオーナーなら推して知るべし。。。
2005年、次女が産まれた歳、長男が5歳。

この子をバイクというものに乗せてあげるべく、初めてフェーザーをレストアすることになります。
でもでも~ちょっといじってみたら~
キャブとガソリンタンク内はガソリンが腐り果て、とんでもない香り~(鼻曲がり)
おっと、ようやくレストアの記事になりつつありますので、続きは次回ですね(笑)
果たして10年間も寝ていたフェーザーは蘇ったのでありましょうか!?
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