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YAMAHA FZ250 Phazer素人レストア記 2

CategoryFZ250 Phazer
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さてさて、警視庁のパトカーから謎の通告を受け、背中を押された勢い(←勝手に思い込んでる)で、いざ練馬インターから新潟まで走ることに。

高まっていた鼓動は、初の高速、しかも80km/h(当時)で永遠に走行し続けられるという夢みたいな道路にますます高鳴ります。

だがしかぁ~し、フェーザーオーナーならお分かりかと思いますが、このバイク、とっても前傾姿勢で運転しなくてはなりません。

しかもこの先、実家まで約600キロです。

18歳の体力有り余る青年でも、100キロも走ればそれなりにくたびれ(特に肩から首、そしてアクセル握っている右手)、嗚呼…M青年は新潟まで走破できず途中高速リタイアするのでありました…

※ちなみに関越自動車道が全線開通するのは、この年の10月。つまり私は否が応でも未開通の前橋ICで降りなければいけなかったようです。

どこで高速を降りたものか、もう記憶は忘却の彼方ですが、新潟県に入った途端、道幅がめちゃ広くなり、いきなり両側4車線の道路になったのを鮮明に覚えております。


これぞ利益誘導!(爆)

当時闇将軍として政界を牛耳っていた田中角栄大先生のおかげなのであります。

新潟県民が心底羨ましいと思える立派な道路でありました。

これなら高速要らねんじゃね?と思えるほど。

そして新潟市を通過して、だるま屋ウィリー事件が起こる14年前の村上市も通過(爆)、いよいよ山形県に入ります。

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(↑山北町・現村上市付近にて)


途端に道が悪くなります(爆)

山形県の皆さん、怒らないでください。
あくまでも新潟と比較しての話です。
カトーさんが力をつけ始めていた頃であり、その後如実に庄内の道も素晴らしく変貌を遂げて行くわけですから。。



それこそ今はもう中華そばで大行列の超人気店「琴平荘」も、その名の通り、まだバリバリ旅館として大繁盛していた時代だと思います。



おそらくこの時琴平社長は、大学2年生で、バイトで稼いだお金で豪遊していたものと推測します(爆)

セドリックあたりでゴッドファーザーのテーマでも鳴らして夜の街を走っていたものか? (核爆)

もちろんお盆になってもバイトで忙しく、帰省する暇などなかったことでしょう(笑)


おーっと、ここで脱線しては話が変な方向へ進んでしまいます。

真面目な話、国道7号線を北上すると、当時はあからさまに地元政治家の力量がわかったものです。

秋田県に入ると、それはひどい道でした。

酷道7号線でした(爆)

田中派の古参としてようやく頭角を現し、国政で活躍するようになってきたM岡さんは、その権力でもって利益を地元に持ってくる力に乏しかったものか。。。

地元でも批判の的でしたなぁ…

ちなみにワタクシ、大学卒業後はこの方の秘書をするという手立てが、ある筋を通して出来あがっていたのですが(結構マジ)、自らそれを白紙に戻してしまうという失態を演じてしまうのでありますが、そのことについてはいずれまた・・



さて、肝心の愛馬フェーザーでありますが、新車バリバリなので絶好調の走り。

燃費も素晴らしく、確か東京から実家まで一度きりの給油で済んだような記憶があります。

ということは、ざっとの計算ですが、600キロ走ったとしてスタート時満タン、途中一回給油の計24リットル。
600÷24=燃費は25キロ/ℓとなります。

公称数値が51キロ/ℓですから半分ほど。

しかし途中高速で何度もレッドゾーンまで回したりしての走行ですから立派な数値と言えましょう。


早朝に出発して、秋田の実家へ到着したのは夕方も過ぎてからでありました。

あまりにも疲れ果ててしまい、丸2日ほど寝ていたような記憶があります。


さて、日中は実家の喫茶店を手伝いながら、夕方は特に何もすることもなく部屋でゴロゴロするという日々を送っていた時、テレビから耳を疑うようなニュースが飛び込んできたのです。

「羽田発、日航機123便が消息を断ちました!」

そうです。

あの日本航空機史上最大の大惨事、日航機墜落事故が起こったのでありました!!

(続く)

いつになったらレストア記事に入るの? (自爆)
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